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ねぶた [随筆]

   ねぶた
 念願のねぶたに行ってきました。長年、一度は行きたいと思いながら、なかなか果たせないでいましたが、大人の休日倶楽部のツアーで良さそうなものを見つけ、二人で行ってきました。一泊二日で、一日目はねぶた。二日目は津軽三味線と津軽鉄道。コンパクトで
願ってもない企画でした。
 一日目、ねぶた22台の運行を満喫。今年はJRのねぶたが大賞を獲得。大人の休日倶楽部の座席も盛り上がりました。
 山の上のホテルに入ったのは11時過ぎでしたが、部屋の広さにびっくり。温泉に入り、朝は岩木山などの眺望を堪能。
 二日目、津軽三味線の演奏を一番前の席で満喫。その後、津軽鉄道に乗って辺りの風景を満喫。乗務員さんの津軽弁を交えた放送も抜群でした。
 添乗員さんも、よく気が利き、本当に気持ちのいい旅でした。
 あとは、徳島の阿波踊りと秋田大曲の花火に行ってみたいかなあ。

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クロザル [随筆]

   クロザル
 東南アジア、インドネシアのスラウェシ島にすむクロザルが主人公。クロザルは名前の通り、全身真っ黒。モヒカン刈りのようなユニークな髪型が特徴です。50匹ほどの大所帯でくらしますが、群れの中ではめったに大きな争いが起こりません。平和な群れを維持する秘けつは“顔”。人間顔負けの豊かな表情で、仲間と親密なコミュニケーションをはかり、群れの絆を育んでいるのです。
例えば、笑ったようにニッと口を開く表情は、仲間への「あいさつ」。口をパクパクさせると「愛情」の表現。歯茎をむき出しにするのは「怒り」など、多彩な表情を巧みに使い分け、まるで“会話”するかのように互いに気持ちを伝え合います。
      ……『ダーウィンが来た!』より。
 私が最も感動したのは、群れの中に鏡を置く実験でした。猿の中で最も知能の高いというチンパンジーの群れの中に、鏡を置いてみます。すると、1匹のチンパンジーが鏡の中に写っている自分に気付き(自分とは思わず)、見慣れない奴だと(そりゃあ自分は見慣れない奴です)威嚇します。すると、鏡の中の奴も(当然ながら)威嚇するので、ますます興奮して威嚇します。仲間のチンパンジーたちも寄ってきて、加勢し、大混乱。ついに1匹が跳び蹴りだの攻撃を始め、最後には鏡を割ってしまいます。
 クロザルではどうか。1匹が鏡の中の自分(見慣れない奴)に気付きます。すると、例の
ニッと口を開く表情をします。あいさつをしたのです。すると、鏡の中の奴もニッとあいさつをするので、互いにニッ、ニッの応酬。仲間のクロザルたちも寄ってきて、ニッ。もう、ニッ、ニッ、ニッの無限の伝染です。
 なるほど、こういうことなのか、こういうことって人間社会でもあるよなあ、と妙に考えさせられる一幕でした。

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お久しぶりです [随筆]

 お久しぶりです。
 ようやく再開できる状況となりました。
 ある日突然、自分のブログの管理ページにログ・インできなくなり、必死になんとかしようとすればなんとかなったのでしょうが、めんどくさくなり(つまり、単なる無気力)そのままほったらかしに。
 いろいろな人たちのご心配もあり、なんとかしようと思い出した頃、今度はパソコンの故障。
 など、いつの間にか半年も休んでしまいました。
 でも、なんとか生きてはいますのでご安心ください。
 また、ぼちぼちマイ・ペースで書いていこうと思っています。よろしく。
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私はカモメ [随筆]

   私はカモメ
 もう一つソ連の宇宙飛行士の有名な言葉に、テレシコワの「私はカモメ」という言葉がありますが、これもどうも誤解によるものだと聞いたことがあって、調べてみました。
以下は、それについての引用ですが、どうも誤解したままのほうがよかったような気がします。
           ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆
「私はカモメ」
 1963年6月16日、テレシコワはボストーク6号に単独搭乗して70時間50分で地球を48周する軌道飛行を行い、史上初の女性宇宙飛行士、そして初の非軍人宇宙飛行士となった。

 旧ソ連や現在のロシアでは、宇宙活動中の全ての飛行士が個人識別用のコールサインを付与され、テレシコワは「チャイカ」(Ча́йка、カモメの意)が与えられた。打ち上げ後の「Я чайка(ヤー・チャイカ、「こちらチャイカ」の意)という事務的な応答が女性宇宙飛行士の宇宙で発した最初の言葉となり、日本ではチェーホフの戯曲『かもめ』で用いられる同様の台詞「私はカモメ」と誤った結びつけで紹介され、ミッションの代名詞として広く知られた。

 女性宇宙飛行士を搭乗させる計画はあったものの、2人目の女性宇宙飛行士であるスベトラーナ・サビツカヤが飛行したのは19年後となった。テレシコワと同時に選抜された他の4人は宇宙に旅立つことはなかった。テレシコワが宇宙飛行中にパニックを起こして問題となり、女性飛行士の採用が敬遠されたためとも言われるが、当時は(テレシコワがパニックに陥った原因とされる)宇宙酔いという現象がよく理解されていなかったことが理由のひとつとも言われている。
……Wikipedia『ワレンチナ・テレシコワ』より。

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「地球は青かった」 [随筆]

   「地球は青かった」
 ガガーリンの言葉として有名な、あの「地球は青かった」は、実は少し違うというようなことを、いつかどこかで聞いたことがあって、気になっていたので調べてみました。今はたいていのことはとりあえずネットで調べることができるので、本当に助かっています。以下は、その引用です。
☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆
「地球は青かった」
 ガガーリンの言葉として日本においてのみ有名な「地球は青かった」は、1961年4月13日付けのイズベスチヤに掲載されたルポ(着陸地点にいたオストロウーモフ(Георгий ОСТРОУМОВ)記者によるもの)によれば、原文では、Небо очень и очень темное , а Земля голубоватая . となっており、日本語では、『空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた』(ГОЛУБОЙ(ガルボイ)は淡青色または薄青色である。英語では、bluishまたはlight blue)となる。
 朝日新聞4月13日夕刊、毎日新聞4月13日夕刊、読売新聞4月13日朝刊は、この記事を基にしている。
「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」が英語に翻訳される際、「地球は青かった」に変化して広まったという説もあるが、根拠が見当たらない。ガガーリンの著書「宇宙への道」にも、地球の描写として 「地球はみずみずしい色調にあふれて美しく、薄青色の円光にかこまれていた」のような記述が見られる。

「神はいなかった」
 ガガーリンの地球周回中の言葉として報道され、有名になったものとして「ここに神は見当たらない」というものがある。ガガーリンが飛行中に「見回してみても神はいない」と言ったとされているが、記録にはその種の発言は一切残されていない。しかしながら日本以外では、この言葉の方が「地球は青かった」よりも有名である。他に「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」という表現でもよく引き合いに出されている。

 ガガーリンの親友であった宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフは著書「Two sides of the moon(『アポロとソユーズ』、p295)」の中でガガーリン自身が好んで語ったアネクドートとして次の話をあげている。おそらく、この中の言葉が彼自身の言葉として一人歩きしているのではないかと思われる。

 宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。
総主教「宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか。」
ガガーリン「見えませんでした。」
総主教「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように。」
 しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンはさきほどとは違うことを答えた。
ガガーリン「見えました。」
フルシチョフ「同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように。」(レーニン主義は宗教を否定している)

              ……Wikipedia『ユーリイ・ガガーリン』より。

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おもしろい先輩 [随筆]

   おもしろい先輩
 私が新卒で就職したとき、隣の席に本当におもしろい、不思議な先輩がいました。

 あるとき、突然こんなことを聞いてきます。
 「ねえ、君は神様がいるって信じるかい?」
 私が「いえ……、……」と返答に困っていると、
 「いるかいないかは、五分五分だよねえ。だから僕は、神様はいるって信じているんだ。だって、いないなんて言っていて、死んだとき、本当にいちゃったら困るだろう?」
 後で別の先輩から聞いたのですが、その先輩はクリスチャンだとのことでした。

 また、あるときは、こんなことを聞いてきます。
 「ヘビがね、自分をしっぽから飲み込んでいったら、最後はどうなっちゃうのかねえ。」
 「ええっ、…………。丸くなって…………、最後はつっかえちゃうんじゃないですか?」
 「そうかなあ。僕は、最後は裏返っちゃうんじゃないかと思うんだけど。ほら、手袋か靴下みたいにさ。」
 ちなみに、この先輩は実は理科の先生でした。

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トーマス・エジソンの名言 [随筆]

   トーマス・エジソンの名言
 エジソンの名言を、インターネットで調べてみたら、見つかりました。引用させていただきます。読んでみて、つくづく凄い人だと思いました。
 ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆
 失敗したわけではない。それを誤りだと言ってはいけない。勉強したのだと言いたまえ。

 私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。

 私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ。

 ほとんどすべての人間は、もうこれ以上アイデアを考えるのは不可能だというところまで行きつき、そこでやる気をなくしてしまう。勝負はそこからだというのに。

 もちろん、生まれつきの能力の問題もまったく無視はできない。それでもやはり、これはおまけみたいなものだ。絶え間なく、粘り強く努力する。これこそ何よりも重要な資質であり、成功の要といえる。

 一日8時間労働制に感じた危機感は、労働時間の不足などではない。働くということが、ただの決まりきった作業になってしまうということだ。

 朝7時に起き、夜11時に就寝すれば、たっぷり16時間ある。大抵の人は一日中なにか仕事をしている。ただ一つ違うのは、彼らの仕事は非常に多岐にわたり、私はたった一つの仕事に全てのエネルギーを集中する点だ。

 自分は毎日、18時間働くことにしている。

 最初のひらめきが良くなければ、いくら努力してもダメだ。ただ努力だけという人は、エネルギーを無駄にしているにすぎない。

 大事なことは、君の頭の中に巣くっている常識という理性を綺麗さっぱり捨てることだ。もっともらしい考えの中に新しい問題の解決の糸口はない。

 困るということは、次の新しい世界を発見する扉である。

 絶えず変化を求める気持ちと不満こそが、進歩するために最初に必要となるものである。

 成功しない人がいたとしたら、それは考えることと、努力すること、この二つをやらないからではないだろうか。

 完全に満足しきった人がいたら、それは落伍者だ。

 成功できる人っていうのは、「思い通りに行かない事が起きるのはあたりまえ」という前提を持って挑戦している。

 私はこれまで、偶然のひらめきで、価値ある発明をしたことなど一度もない。
全ての発明というのは、その発明に関わった人の想像を絶するような熱意が注ぎ込まれているものなんだよ。

 人生に失敗した人の多くは、諦めたときに自分がどれほど成功に近づいていたか気づかなかった人たちだ。

 成功に不可欠なのは、肉体的にも精神的にも疲労を溜めずに、ひとつの問題にエネルギーを注ぎ込める能力である。

 最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は混乱のうちになされる。

 私は、ひとたび自分が正しいと思う道を歩きだしたら、ゴールに到達するまでペースを崩さない。

 人から批判されることを恐れてはならない。それは成長の肥やしとなる。

 他の発明家の弱点は、ほんの一つか二つの実験でやめてしまうことだ。
わたしは自分が求めるものを手に入れるまで決してあきらめない。

 ほとんどの人がチャンスを逃す理由は、チャンスは作業着を着て、大変そうに見えるからだ。

 発明とは、それが人類にとって本当に必要なものなのかを判断する能力である。

 作ったものが計画通りに機能しないからといって、それが無駄とは限らない。

 わたしは、決して失望などしない。どんな失敗も、新たな一歩となるからだ。

 それは失敗じゃなくて、その方法ではうまくいかないことがわかったんだから成功なんだよ。

 今取り組んでいることに関心を持ち、全力を傾けてそのことだけを考える。時計を気にせず、ひたすら続け、休みたくなったら必要なだけ休む。休んだあとは、また同じ集中力で作業に取り組む。熱心に働くことの価値と満足感を知っている人に世間は高い評価を下すものだ。

 人間は思考する努力を省きたいために、ありとあらゆる方便に頼ろうとする。

 朝6時に起き、夜中の2時まで働くこと。これを最初に描いた図面が形になるまでやり続けるのだ。すぐにはうまくいかなくても、睡眠時間を減らし、起きている時間は精魂こめて働くようにする。このルールを守れば、発明家として成功できるだろうし、もっと言えば、どんな分野においても成功できる。

 私の発明は、すべての人にとって役に立つ物でありたい。そして、世界の平和に貢献するような物でありたい。もし私の発明で一人でも人が死んだとしたら、私には人生を生きる意味も資格もない。

 機械は生活を便利にした、将来はもっと便利になるだろう。しかし、用心しなくては人間が機械に使われるようになってしまう。

 自然界の秘密を解き明かすのに、人間の理性に頼っていては駄目だよ。

 首から下で稼げるのは1日数ドルだが、首から上を働かせれば無限の富を生み出せる。

 天才とは、1%のひらめきと99%の努力である。

 私は一日たりとも、いわゆる労働などしたことがない。何をやっても楽しくてたまらないからだ。

 権威ある本といっても、すべては人の書いたものだ。

 待っている間もがんばる人にすべてのものはやってくる。

 われわれは何事についても1パーセントの100万分の一も知らない。

 われわれが何かを成し遂げようとしているとき、ルールなどない。

 売れないものは発明したくない。売れることが実用性の証明であり、実用性が成功を意味する。

 まず世界が必要としているものを見つけ出す。そして、先へ進み、それを発明するのだ。

 私が成功することができたのは、仕事場に時計がなかったおかげである。

 もし我々が自分にできることを全て実行すれば、自分自身に対して文字通りびっくりすることだろう。

             ……癒しツアー『トーマス・エジソンの名言・格言』より。

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ぶどう酒が水になった話 [随筆]

   ぶどう酒が水になった話
 ずいぶん前から、なぜか心に残っている話です。

 フランスの田舎で何十年も小学校の教師をしていた一人の先生が学校をやめて自分の故郷に帰ることになりました。それで村の人たちが自分の子供たちがお世話になったので何かプレゼントをしようと話し合いました。そして、村の名産であるぶどう酒をみんな、ある量だけ持ち寄って贈ろうということになりました。
 村の広場の真ん中に大きなたるをおいてそれぞれがぶどう酒を持ち寄ってみんなでいっぱいにしました。いっぱいになったので封印をして先生に贈りました。
 先生は村人たちの思いがけない贈り物にたいへん喜んでお礼を言いました。村の人たちと別れるのはつらいけれど大好きなぶどう酒をもらったのでふるさとに帰っても楽しみでした。
 ふるさとに帰って2,3日後、ぶどう酒のたるをあけて飲んでみました。するとぶどう酒だと思っていたのに全くの水に替わっていました。
 老教師はまるで狐につままれたようで訳がわかりませんでした。あんなに正直だと思っていた村人たちがなぜこんなことをして自分のことをからかうのだろうか、どう首をひねってもわかりません。それよりも裏切られた怒りを抑えることができませんでした。
 さて、みなさん、どうしてぶどう酒が水になってしまったかわかりますか。
 村の人たちはそれぞれがある量のぶどう酒を持ち寄ってたるにいっぱいになるようにしたのでしたね。中には自分一人ぐらい水を入れたってわからないだろうという約束を守らない人が出てきたのです。それがAさんだけでなくBもCもDもEも、いや村人全部がそんなふうに考えて水を入れたのでたるの中は全くの水になってしまったのです。
                 坂井市立明章小学校ホームページより
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「熱い(暑い)」と「厚い」 [随筆]

   「熱い(暑い)」と「厚い」
 テレビなどを見ていて、大変気になることがあります。それは主として、言葉のアクセントということです。
 特に気になるのが、「熱い(暑い)」と「厚い」。日本語は、アクセントがあまり意味に関係しないとは言っても、いくつかアクセントによって意味の変わってしまう言葉があります。その代表例の一つが「熱い(暑い)」と「厚い」。「熱い(暑い)」は「低高低」、「厚い」は「低高高」です。
 「胸を熱く(高低低)する」を、平気で「胸を厚く(低高高)する」と言われると、ドキッとしてしまいます。
 NHKの「熱中人」とかいう番組で、司会者が「熱い(低高低)心」と言うべきところを、毎回のように「厚い(低高高)心」と言っているのには、あきれ、その内に腹立たしくさえなってしまいました。
 「コズミックフロント」や天気予報でも、「熱い雲」だか「厚い雲」だか、よくわからない時がよくあります。
 一般の人ならともかく、アナウンサーとか、ナレーターとか、言葉の専門家ではないかと思う人たちが、こうしたところにいい加減というか無神経になっているということには、愕然とします。
 先日も、家庭菜園だかの番組で、「葉が(低高)食べられる」を「歯が(高低)食べられる」と言っていて、びっくりしてしまいました。
 アクセントについて、いちいち難癖をつけたり、ひとつのアクセントに決めつけたりする気は毛頭ありません。
 しかし、こうした、アクセントによって意味の変わってしまう言葉くらいは、意味に注意し、ていねいに発音してほしいと思います。
 ずいぶん前に、NHK会長に、「NHKでは、こうしたことについて、どのように考え、どのように教育し、どのように研修し、どのようにチェックしたり反省したりしているのでしょうか」という質問をしたのですが、全く無視されてしまいました。
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オセロ [随筆]

   オセロ
 「オセロ・ゲーム」、世界的には「リバーシ」という名のほうが通っているようです。
相手の石をはさむとひっくり返し、最後に残った石の数の多いほうが勝ちというあれです。実にわかり易いルールなので、子どもでも覚えやすく、一時大ブームとなりました。
 単純な、お子様向けのゲームくらいに思っている人もいらっしゃるかも知れませんが、
実はなかなか奥の深いゲームなのです。
 オセロが大流行していた頃、身近にとても強い人がいて、ずいぶん教えてもらいました。地方大会や全国大会、世界大会まであると聞きました。
 最後に残った石の数の多いほうが勝ちということで、覚え立てはたいてい相手の石を多くひっくり返したがります。当然の心理です。しかし、そういうやり方は、たいてい後半にひっくり返され、大逆転を食らいます。途中でも、相手の石を全部ひっくり返してしまえば勝ちなのですが、なかなかそうはいかず、打つ場所が限られてゆき、その内、打ちたくない場所に打たされる状態に追い込まれ、みじめな負け方をすることになります。まさに『逆転のオセロ』なのです。
 隅を取ることは、オセロではとても有利なことです。なぜなら、隅の石、および隅の石につながっている石は絶対にひっくり返されることはないからです。隅を取ることが有利ということは、逆に隅の隣には石を持って来たくないということです。これもけっっこう大切なことです。でも、これも絶対ではありません。なぜなら、わざと隅を取らせて……という、高度な戦法もあるからです。
 では、どうすれば良いのか。
 勝ち方の基本は、「自分の打てる場所を増やし、相手の打てる場所を少なくしてゆく」ということです。
 ですから、むやみやたらに相手の石をひっくり返すのは、それに反することになります。単純にわかり易く言えば、序盤・中盤では、なるべく相手の石をいっぱいひっくり返さないようにするということになりますが、本当は石数の問題ではなく、大事なのは「自分の打てる場所を増やし、相手の打てる場所を少なくしてゆく」ことです。
 例えば、相手の中へ潜り込んで、その外側に相手の石の壁を作らせる。そして、その壁は極力そのまま崩さないようにする。そうすれば、自分の打てる(選べる)場所は増え、相手の打てる(選べる)場所は減るということはわかりますよね。こうして、相手を「打ちたくないけど、ここに打つしかない」という状態に追い込んでゆけば、そして最後には、とうとう相手は打つ場所がなくなり、パスの連続、自分だけ打ち続けるという状態に追い込んでゆけば、必勝というわけです。
 オセロでなかなか勝てない、どうすれば勝てるんだろうという方、是非試してみてください。
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